◆判決本文
1.特許請求の範囲
木材パルプを原料とするガラス板用合紙であって,紙中に含まれるシリコーンの量が,紙の絶乾質量に対して0.5ppm以下であるガラス板用合紙。
2.(判旨抜粋)
特許法29条の2…にいう先願明細書等に記載された「発明」とは,先願明細書等に記載されている事項及び記載されているに等しい事項から把握される発明をいい,記載されているに等しい事項とは,出願時における技術常識を参酌することにより,記載されている事項から導き出せるものをいうものと解される。したがって,特に先願明細書等に記載がなくても,先願発明を理解するに当たって,当業者の有する技術常識を参酌して先願の発明を認定することができる一方,抽象的であり,あるいは当業者の有する技術常識を参酌してもなお技術内容の開示が不十分であるような発明は,ここでいう「発明」には該当せず,同条の定める後願を排除する効果を有しない。また,創作された技術内容がその技術分野における通常の知識・経験を持つ者であれば何人でもこれを反覆実施してその目的とする技術効果をあげることができる程度に構成されていないものは,「発明」としては未完成であり,特許法29条の2にいう「発明」に該当しないものというべきである。
…これを本件についてみると,…ガラス合紙の,シリコーンのポリジメチルシロキサンである有機ケイ素化合物の含有量を3ppm以下,好ましくは1ppm以下で,0.05ppm以上とした先願発明は,ガラス合紙からガラス板に転写された有機ケイ素化合物に起因する配線の不良等を大幅に低減でき,特にポリジメチルシロキサンがガラス板に転写され,より配線や電極の不良等が発生し易くなることを抑制できるものであって,先願発明の目的とする効果を奏するものであること,そのようなガラス合紙は,ポリジメチルシロキサンを含有する消泡剤を使用しないで製造したパルプを原料として用い,ガラス合紙の製造工程において,パルプの洗浄,紙のシャワー洗浄,水槽を用いる洗浄や,これらを2種以上行う方法により製造できること,以上のことが理解できる。そうすると,先願発明は,創作された技術内容がその技術分野における通常の知識・経験を持つ者であれば何人でもこれを反覆実施してその目的とする技術効果をあげることができる程度に構成されたものというべきである。よって,先願発明は,特許法29条の2にいう「発明」に該当し,未完成とはいえないから,同条により,これと同一の後願を排除する効果を有する。
3.若干の考察
新規性・進歩性判断の基礎となる特許法29条1項各号の「発明」、同29条の2「発明」は、後願排除効を有する「発明」である必要がある。もっとも、その趣旨に鑑みて、特許法29条1項柱書所定の発明該当性までは必要がないとする裁判例が多く存在する。
実務においては、以下に紹介する関連裁判例が参考になる。
(1)“引用発明”の適格性は、技術的思想を実施し得る程度に開示されており、特許発明と対比するに十分な程度に開示されていれば足りる(仮に実施不能又は発明未完成であった場合でさえも、“引用発明”の適格性が失われるものではない)
平成22年(行ケ)第10163号〔経管栄養剤事件〕は、“引用発明”の適格性について、「特許法29条…1項3号にいう特許出願前に「頒布された刊行物に記載された発明」に基づいて容易に発明をすることができたか否かは,特許出願当時の技術水準を基礎として,当業者が当該刊行物を見たときに,特許を受けようとする発明の内容との対比に必要な限度において,その技術的思想を実施し得る程度に技術的思想の内容が開示されていることが必要であり,かつ,それをもって足りると解するのが相当である。」と判示し、“引用発明”の適格性は、技術的思想を実施し得る程度に開示されていれば足りるとしている。
また、平成23年(行ケ)第10201号〔光学増幅装置事件〕は、「「刊行物に記載された発明」というためには,刊行物記載の技術事項が,特許出願当時の技術水準を前提にして,当業者に認識,理解され,特許発明と対比するに十分な程度に開示されていることを要するが,「刊行物に記載された発明」が,特許法所定の特許適格性を有することまでを要するものではない。」と判示し、“引用発明”の適格性は、特許発明と対比するに十分な程度に開示されていれば足りるとしている。
更に言えば、平成12年(行ケ)第315号〔磁気ディスプレーシステム事件〕は、「仮に,刊行物1記載の発明が,何らかの理由により,実施不能又は発明未完成であったとしても,刊行物1から…との技術的思想を認識し,これと他の発明を組み合わせることが不可能となるものではない。したがって,刊行物1記載の発明が,原告ら主張の理由により,実施不能又は発明未完成であるとしても,刊行物1記載の発明に基づいて,いかなる発明も想到できない,などというものではないことは明らかである。」と判示した。“
(2)公然実施「発明」の完成
東京地裁平成24年(ワ)第11800号〔ポリイミドフィルム事件〕<高野>は、以下のとおり判示して公然実施「発明」が完成したといえるために反復可能性が必要としており、本判決と同様である。(⇒同事案においては、反復可能性〇)
「…特許法2条1項の「発明」は,自然法則を利用した技術的思想の創作のうち高度のものをいうから,当業者が創作された技術内容を反復実施することにより同一の結果を得られること,すなわち,反復可能性のあることが必要である(最高裁平成10年(行ツ)第19号…)。被告は,…先行発明の技術的範囲に属する28本の先行製品を製造したのであって,先行発明には反復可能性があるから,被告が…先行発明を完成させていたことは明らかである。確かに,先行製品は,別表記載のとおり,1ロットの中でも,αMDが10ppm/℃未満であったり,αTDが3ppm/℃未満や7ppm/℃超であったりしたのであるが,弁論の全趣旨によれば,それは,被告が,本件発明1の内容を知らず,αMDを10ppm/℃以上,αTDを3~7ppm/℃以上とすることを目標にしていなかったからにすぎないことが認められる。…」
(3)“引用発明の認定”は、本件発明との対比に必要な範囲で行うべきものであり、これで足りる
例えば、平成26年(行ケ)第10251号〔真空吸引式掃除機用パックフィルター事件〕は、「本願発明の新規性の有無を判断する場合における引用発明の認定については,本願発明の発明特定事項のすべてが引用公報に記載されているかどうかを判断するために必要な技術事項が認定されるべきである。したがって,引用発明の認定は,本願発明の発明特定事項に対応する技術事項が客観的,具体的に認定されるべきであり,また,引用公報に発明特定事項に対応する技術事項が記載されていないとの判断を導く関連技術事項も記載されている場合には,これも加えて引用発明として認定する必要がある。これに対し,引用発明の特徴的技術事項であっても,本願発明の発明特定事項に関連しない技術事項まで認定する必要はない。」と判示しており、“引用発明の認定”は、あくまで本件発明との対比に必要な範囲で行うものであるとしている。
平成17年(行ケ)第10672号〔高周波ボルトヒータ事件〕は、「…引用発明の認定においては,引用発明に含まれるひとまとまりの構成及び技術的思想を抽出することができるのであって,その際引用刊行物に記載された具体的な実施例の記載に限定されると解すべき理由はない。」と判示しており、“引用発明の認定”は、ひとまとまりの構成及び技術的思想を抽出することができることを明らかにしている。
この他にも、令和1年(行ケ)第10097号〔簡易蝶ネクタイ事件〕は、「発明の進歩性の判断に際し,特許出願に係る発明ないし特許を受けている発明(以下『本願発明等』と総称する。)と対比すべき特許法29条1項各号所定の発明(以下『主引用発明』という。)の認定は,これを本願発明等と対比させて,本願発明等と主引用発明との相違点に係る技術的構成を確定することを目的としてされるものであるから,本願発明等との対比に必要な技術的事項について過不足なく行うことが必要である。これを本件についてみると,上記①の点について,本件補正発明は,発明特定事項として,子供用簡易蝶ネクタイを正面から見た構成を含むものではないから,本件補正発明と対比するに当たって,甲1の簡易蝶ネクタイを正面から見た構成を認定する必要はない。」と判示しており、“引用発明の認定”は、あくまで本件発明との対比に必要な範囲で過不足なく行うものであり、本件発明が有しない構成まで認定する必要は無いとされている。
なお、平成29年(行ケ)第10160号〔光安定性の向上した組成物事件〕は、「引用発明は,特許出願に係る発明が進歩性を有しているか否かを判断するに当たり,特許出願に係る発明との対比により一致点及び相違点を抽出し,当該引用発明を出発点として,相違点に係る特定事項を備えた発明を当業者が容易に想到できたか否かを検討するための基礎となるものである。そうすると,このような引用発明の目的に照らせば,引用発明は,本件発明と引用発明との一致点及び相違点を抽出するための対比が可能な程度に特定されていれば足り,本件発明との対比に明らかに関係がない事項についてまで,引用例に記載されているとおりにそのまま認定しなければならないものではないと解される。」と判示しているとおり、本件発明との対比に明らかに関係がない事項についてまで,引用例に記載されているとおりにそのまま認定しなければならないものではない。
(4)“引用発明の認定”について判断した裁判例の紹介
上記のとおり、“引用発明の認定”は、本件発明との対比に必要な範囲で行うべきものであり、これで足りるものであるところ、この点について具体的にあてはめた裁判例を紹介する。
平成15年(行ケ)第348号〔べら針事件〕は、「甲5公報及び甲6公報…に接した当業者は,半抜き加工により被加工材を塑性変形させて凹部を形成する際,当該凹部の溝底の形状を平坦にするという技術手段を理解するに当たって,原告主張に係る甲5公報及び甲6公報記載の発明の目的や他の構成要素を,本件技術手段と一体不可分なものとして理解しなければならない理由はないから,当業者は,本件技術手段を,一般の金属板半抜き加工技術として,任意に転用可能な技術手段であると理解するというべきである。」と判示した。
平成17年(行ケ)第10024号〔フェンダーライナ事件〕は、「原告は,引用例1の実施例1によると,吸音材の厚さは30mmであり,この厚さから密度を計算すると,密度は約0.03g/cm3となり,硬質繊維板どころか,JISに定義されている中質繊維板の密度よりもはるかに小さい旨主張する。しかし,審決が引用発明としているのは,数値による定量的な事項を捨象した「PET繊維を熱可塑性樹脂バインダー(バインダー繊維)で融着結合してなるPET不織布をコールドプレスし,所定形状に賦形した自動車のエンジンルーム内に適用される防音材」という発明である。そして,引用発明を,実施例1に記載されている定量的な事項によって限定されなければならないような事情は見当たらない。」と判示した。
平成16年(行ケ)第159号〔遊技機における制御回路基板の収納ケース事件〕は、「本件決定が刊行物2,3を引用したのは,遊技機の制御回路基板の収納ケースにおいて,該収納ケースの底板部に基板固定ピンを突設し,該基板固定ピンにより前記収納ケースの底板部に制御回路基板を固定させることが本件特許出願時に周知であったことを明らかにするためである。そして,制御回路基板を同基板の収納ケースの底板部に固定する技術と制御回路基板の収納ケースに静電気(電磁波)対策を施す技術とは技術的に関連性がないことは刊行物2,3の記載及び技術常識に照らして明らかであり,刊行物2,3の上記技術事項を刊行物1発明に適用する際に,静電気対策上悪影響があるか否かの問題は生じない…。」と判示した。
平成22年(行ケ)第10160号〔封水蒸発防止剤事件〕は、「引用発明2は,…粘着剤層(2a)が担う軽剥離が可能とするとの機能は,粘着剤層(2b)とは独立した機能の併存によって達成されるものであるから,粘着剤層(2b)が存在することによって影響を受けるものではなく,粘着剤層(2a)のみによって独自に発揮されるものということができる。そうであるから,…当業者は,引用発明2の構成に係る粘着力が相対的に弱い粘着剤層(2a)と粘着力が相対的に強い粘着剤層(2b)とをそれぞれ別個の構成のものとして認識することができ,それぞれが有する技術的意義も個別に認識することができるから,粘着剤層(2a)について,チップ状ワークを粘着剤層から剥離する時の軽剥離性に着目し,この粘着力が相対的に弱いものとして,独立して抽出することができるものということができる。」と判示した。
平成22年(行ケ)第10220号〔携帯型家庭用発電機事件〕は、「なるほど,引用発明は,引用例記載の「携帯用扇風機」における,太陽光発電及び充電時の一態様であって,一義的には当該扇風機の駆動に供するものであるといえる。しかし,引用発明が開示する太陽光発電,充電時の開示された構造及びその機序は扇風機の駆動と直接関係しているものではなく,それ自体が技術的に独立し,技術的に扇風機の駆動と分離して論ずることができる…。したがって,引用例におけるこのような記載事項に接した当業者は,引用例に記載された事項を総合的にみて,独立した技術思想として,多目的活用可能な太陽電池である引用発明を読み取ることができる」と判示した。
⑷ 原告の主位的主張(先願発明が発明として未完成であることの看過)について
ア 原告は,当業者が反復実施して目的とする効果を挙げることができる程度にまで具体的・客観的なものとして構成されていないいわゆる「未完成発明」は,特許法29条の2における「他の特許出願‥の発明」に当たらず,後願排除効を有さないとし,甲1明細書に記載された発明は発明として未完成であると主張する。
イ そこで判断するに,特許法184条の13により読み替える同法29条の2は,特許出願に係る発明が,当該特許出願の日前の他の特許出願又は実用新案登録出願であって,当該特許出願後に特許掲載公報,実用新案掲載公報の発行がされたものの願書に最初に添付した明細書又は図面(以下「先願明細書等」という。)に記載された発明又は考案と同一であるときは,その発明について特許を受けることができないと規定する。
同条の趣旨は,先願明細書等に記載されている発明は,特許請求の範囲以外の記載であっても,出願公開等により一般にその内容は公表されるので,たとえ先願が出願公開等をされる前に出願された後願であっても,その内容が先願と同一内容の発明である以上,さらに出願公開等をしても,新しい技術をなんら公開するものではなく,このような発明に特許権を与えることは,新しい発明の公表の代償として発明を保護しようとする特許制度の趣旨からみて妥当でない,というものである。
このような趣旨からすれば,同条にいう先願明細書等に記載された「発明」とは,先願明細書等に記載されている事項及び記載されているに等しい事項から把握される発明をいい,記載されているに等しい事項とは,出願時における技術常識を参酌することにより,記載されている事項から導き出せるものをいうものと解される。
したがって,特に先願明細書等に記載がなくても,先願発明を理解するに当たって,当業者の有する技術常識を参酌して先願の発明を認定することができる一方,抽象的であり,あるいは当業者の有する技術常識を参酌してもなお技術内容の開示が不十分であるような発明は,ここでいう「発明」には該当せず,同条の定める後願を排除する効果を有しない。また,創作された技術内容がその技術分野における通常の知識・経験を持つ者であれば何人でもこれを反覆実施してその目的とする技術効果をあげることができる程度に構成されていないものは,「発明」としては未完成であり,特許法29条の2にいう「発明」に該当しないものというべきである。
ウ これを本件についてみると,甲1明細書には,液晶ディスプレイ用ガラス板などのFPD用のガラス板の表面の疵や汚染を防止するために,積層するガラス板の間に挟み込み,隣接するガラス板の表面同士を分離するガラス合紙において,積層するガラス板の間にガラス合紙を介在させてガラス板表面に微細な配線や電極等を形成した際に生ずる不良を抑制するという課題を解決するために,ガラス合紙に含有されるシリコーンのポリジメチルシロキサンである有機ケイ素化合物の含有量を3ppm以下,好ましくは1ppm以下で,0.05ppm以上とすることを課題解決手段としたものであることが記載されている。
より具体的にいえば,まず,ガラス板の表面に僅かな有機ケイ素化合物が存在しても,配線となる金属薄膜の成膜やエッチングによるパターニング等を阻害し,カラーフィルタのブラックマトリックスにムラを生じさせることから,ガラス合紙からガラス板に有機ケイ素化合物が転写されると,転写された有機ケイ素化合物が異物となって,ガラス板に配線や電極などの素子や,カラーフィルタ等を形成した際の不良発生の大きな要因となること,中でもシリコーンがガラス板に転写されると,配線や電極の不良等が発生し易く,特にジメチルシロキサンがガラス板に転写されると,より配線や電極の不良等が発生し易くなること(【0021】,【0024】),これに対し,ガラス合紙の有機ケイ素化合物の含有量を3ppm以下とすることにより,ガラス合紙からガラス板に転写された有機ケイ素化合物に起因する配線の不良等を大幅に低減できること(【0025】),有機ケイ素化合物の含有量,好ましくは2ppm以下,より好ましくは1ppm以下であること(【0027】),及び,有機ケイ素化合物の含有量は,少ないほど好ましいが,有機ケイ素化合物の含有量が極端に少ないガラス合紙は,製造に手間やコストがかかる点を考慮すると,有機ケイ素化合物の含有量は0.05ppm以上であるのが好ましいこと(【0028】)が記載されている。
そして,ガラス合紙の原料として,シリコーン系の消泡剤を使用しないで製造したパルプを原料として用いるのが好ましく,ポリジメチルシロキサンを含有する消泡剤を使用しないで製造したパルプが特に好適に用いられること(【0031】),ガラス合紙の製造方法として,ガラス合紙の製造工程において,原料となるパルプを洗浄する方法(【0039】),紙をシャワー洗浄する方法(【0042】),及び紙に付着していると考えられる有機ケイ素化合物を溶解できる溶剤を充填した水槽に紙を通紙する方法(【0044】)が記載され,パルプの洗浄,紙のシャワー洗浄,水槽を用いる洗浄は,2種以上行ってもよいことが記載されている(【0045】)。
次に,甲1明細書の実施例には,洗浄したパルプを原料としてガラス合紙を作製したところ,有機ケイ素化合物の含有量は2ppmであったこと(実施例1【0053】),ガラス合紙の製造装置において,ドライヤパートの途中に紙を洗浄するためのシャワーを設けてガラス合紙を作製したところ,有機ケイ素化合物の含有量は1ppmであったこと(実施例2【0055】,【0056】)が記載されている。また,上記各実施例のガラス合紙を用いたガラス板梱包体を,台湾から日本まで船で輸送した後,無作為に選択したガラス板の表面に幅が5μmの直線状の配線を80μmの間隔で形成したところ,全てのガラス板で,配線に断線が認められなかったこと(【0058】~【0060】)が記載されている。
そして,甲1明細書に,配線の不良発生等の原因となる有機ケイ素化合物に,シリコーン,中でもポリジメチルシロキサンが含まれることが記載されている(【0024】)ことからすれば,実施例1及び2の有機ケイ素化合物が,ポリジメチルシロキサンを意味すると理解するのが自然である。
エ 以上によれば,ガラス合紙の,シリコーンのポリジメチルシロキサンである有機ケイ素化合物の含有量を3ppm以下,好ましくは1ppm以下で,0.05ppm以上とした先願発明は,ガラス合紙からガラス板に転写された有機ケイ素化合物に起因する配線の不良等を大幅に低減でき,特にポリジメチルシロキサンがガラス板に転写され,より配線や電極の不良等が発生し易くなることを抑制できるものであって,先願発明の目的とする効果を奏するものであること,そのようなガラス合紙は,ポリジメチルシロキサンを含有する消泡剤を使用しないで製造したパルプを原料として用い,ガラス合紙の製造工程において,パルプの洗浄,紙のシャワー洗浄,水槽を用いる洗浄や,これらを2種以上行う方法により製造できること,以上のことが理解できる。
そうすると,先願発明は,創作された技術内容がその技術分野における通常の知識・経験を持つ者であれば何人でもこれを反覆実施してその目的とする技術効果をあげることができる程度に構成されたものというべきである。
よって,先願発明は,特許法29条の2にいう「発明」に該当し,未完成とはいえないから,同条により,これと同一の後願を排除する効果を有する。
オ 原告は,甲1明細書の実施例によれば,①ソックスレー抽出器による抽出時間が不明であるから,ガラス合紙中の「有機ケイ素化合物」の含有量を特定することはできない,また,②抽出溶媒及び抽出時間が不明であるから,実施例に示されている抽出操作は実施不可能である,さらに,③有機ケイ素化合物が具体的に何であるかが不明である,加えて,④核磁気共鳴(NMR)による定量の際の標準品について記載されておらず,「有機ケイ素化合物」が具体的に何であるかが不明であるから標準品を作製すること自体不可能であり,検量線を決定することは不可能であるから,原理的に有機ケイ素化合物を定量することはできないとして,技術的思想が完成していないと主張する。
(ア) しかしながら,まず,③については,実施例の有機ケイ素化合物がポリジメチルシロキサンを意味すると理解するのがごく自然であることは,前記ウのとおりである。
(イ) ①②のソックスレー抽出については,以下の文献がある。
a 化学大辞典編集委員会編「化学大辞典5〔縮刷版〕」(共立出版株式会社,2006年9月15日,縮刷版第39刷発行。甲13)527頁
「ソックスレーちゅうしゅつき
‥実験室で溶剤抽出を行なう場合に使用するガラス器具の一つ。‥試料中の不揮発性成分を揮発性溶剤を用いて,次のように溶かし出す‥十分抽出を終わったらフラスコをはずし,溶剤を留去すれば,あとに不揮発性成分が残る。油分の定量,抽出などに広く使用される。」
b 特開2007-114249号公報(乙2)
【0051】 ‥ここで,ポリジメチルシロキサンのソックスレー抽出量とは,弾性体に対し,100mlのn-ヘキサンを抽出溶剤として用い,ソックスレーにて8時間抽出を行ない,抽出液ならびに抽出残渣を約1Paで5時間乾燥固化した後に抽出液乾固物に含まれるポリジメチルシロキサン量を秤量して求めた抽出量の全体に対する比率をいう。
c 特開2009-120707号公報(乙3)
【0040】 ‥かかるポリカーボネートーポリオルガノシロキサン共重合体には,少なからずポリカーボネートに結合しない,ポリマーの原料として使用された遊離のポリオルガノシロキサンやポリオルガノシロキサンにカーボネート単位や末端停止剤のカーボネート単位が結合しているものの,それが不十分な成分(以下,“遊離のポリオルガノシロキサン等”と称する)が含まれる。かかる遊離のポリオルガノシロキサン等はn-ヘキサンによる抽出処理によりその量を算出することができる。
【0041】 ‥かかるn-ヘキサン抽出量の算出は,秤量された共重合体試料を,特級n-ヘキサンによりソックスレー抽出処理することにより算出される。
d 特開平7-18140号公報(乙4)
【0015】 ポリシロキサン系化合物とアゾ化合物とが結合してなるマクロアゾ開始剤を用いて塩化ビニルを重合した時,生成物中には,ポリシロキサン系ブロックとポリ塩化ビニル系ブロックからなるブロック共重合体以外に,マクロアゾ開始剤の分解物であり,ポリ塩化ビニルに結合しないポリシロキサン系化合物が含まれることがある。このような非結合のポリシロキサン系化合物の含有量は,ポリシロキサン系化合物を溶解し,塩化ビニル系重合体を溶解しない溶剤(例えば,ジエチルエーテルやn-ヘキサン)を用いてソックスレー抽出を数時間行うことにより求めることができる。
e 甲13及び乙2~4の上記記載に照らせば,先願の出願時において,ソックスレー抽出器により,不揮発性成分を揮発性溶剤を用いて十分抽出し,溶剤を留去して油分を定量することや,ポリジメチルシロキサン等のポリオルガノシロキサンについても,n-ヘキサン等の溶剤を用いてソックスレー抽出を行うことにより定量するということは,技術常識であったといえる。
(ウ) ④のNMRについては,以下の文献がある。
a 日本分析化学会著「機器による高分子分析(I)」(廣川書店,昭和38年9月15日,2版発行。甲21)
NMR法によるメチルフェニルシリコン油のメチル基とフェニル基の定量
‥核磁気共鳴吸収法は近年ますます発展し,装置の改良とともに,多くの研究成果が発表されている。‥NMR法を定性分析に用いるには,化学シフトおよびI-I結合に基づく吸収線の分離を利用する。定量分析では,主に吸収線の全強度(ピークの面積)が着目核の濃度に比例することを利用する。(195頁1~12行)
b 伊藤邦雄編「シリコーンハンドブック」(日刊工業新聞社,1990年8月31日発行。甲22)
20.1.2 シリコーンの定量分析法シリコーンの定量分析法としては,シリコーンのSi量測定が中心であるが,そのほかIR,NMRなどを使用する方法もある‥
(3)また,試料が未硬化品で,特にジメチルシリコーンを測定対象とする場合には,NMR測定によっても定量は可能である。ジメチルシリコーンのNMRは‥ケミカルシフト(δ)が0ppm付近に位置し,ほかの多くの有機物とは異なることから,このピーク強度をシリコーン既知濃度の試料でのそれと比較することにより,混合比(含有量)を求めることができる。また試料が既知化合物との混合品であれば,ピーク強度の相対比較により,混合比(含有量)を求めることができる。(767頁17行~768頁21行)
c 甲21及び22の上記記載によれば,先願の出願時において,NMRによってジメチルシリコーン等のシリコーンの定量分析を行うこと,この際,シリコーン既知濃度の試料とピーク強度を比較することによって定量分析を行うことは,技術常識であったということができる。
(エ) そうすると,前記(イ)の技術常識を有する当業者であれば,甲1明細書に接した際には,その実施例に抽出時間や抽出溶媒について具体的な記載がなくとも,ポリジメチルシロキサンの抽出に適した揮発性溶剤を用い,十分な時間抽出することを当然に理解するものといえる。
また,前記(ウ)の技術常識を有する当業者であれば,甲1明細書に接した際には,その実施例にNMRの標準品が何であるかについて具体的な記載がなくても,ポリジメチルシロキサンを定量するにあたり既知濃度の適宜の試料を標準品として用いることを理解するものといえる。
したがって,原告の指摘する事情を踏まえても,先願発明は,特許法29条の2にいう「発明」に該当するというべきである。
カ 原告は,先願発明の出願人が製紙企業でないことなどを指摘し,先願発明としての技術的思想が完成していないことが推認されるとも主張するが,これらの主張の内容を考慮しても,前記の判断は動かない。
原告は,甲1明細書の実施例に記載された「有機ケイ素化合物」がポリジメチルシロキサンであったと推測することはできず,むしろ,仮に,被告の主張するように,甲1明細書の実施例に記載の「有機ケイ素化合物」がポリジメチルシロキサンであったとすると,同量のポリジメチルシロキサンを含むガラス合紙は同一の実験結果をもたらすはずであるが,本件明細書の実施例では,ポリジメチルシロキサン含有量が2ppmのガラス合紙(比較例1)を使用するとガラス板の表面にポリジメチルシロキサンによる汚染が確認され,また,当該ガラス板を用いた液晶パネルのアレイ形成の際にカラーフィルムの断線が認められるのに対し,甲1明細書の実施例では,有機ケイ素化合物含有量が2ppmのガラス合紙(実施例1)を使用したガラス板の表面に配線を形成しても断線は認められないとされており,いずれも同じ2ppmのポリジメチルシロキサン又は「有機ケイ素化合物」を含むガラス合紙について異なる実験結果となっていることから,甲1明細書の実施例で使用されている有機ケイ素化合物がポリジメチルシロキサンではないことが推察されると主張する。
しかしながら,本件明細書の比較例1は,ガラス板の間に,シリコーン含有量が2.0ppmであるガラス板合紙を挿入して輸送テスト(輸送距離1000km(輸送途中に40℃×95%RHの環境下に5日間保管)を実施し,輸送テスト後のガラス板を用いて,液晶パネルのアレイ形成を行った際,断線が認められたというものであるのに対し,甲1明細書の実施例1は,有機ケイ素化合物の含有量が2ppmであるガラス合紙をガラス板の間に介在させ,台湾から日本に船で搬送した後,ガラス板の表面に,幅が5μmの直線状の配線を80μmの間隔で形成した際,配線に断線は認められなかったというものであって,両者の輸送条件も,断線の有無を確認する条件も異なるから,単に,本件明細書の比較例1と甲1明細書の実施例1との結果が異なることのみをもって,甲1明細書の実施例1の有機ケイ素化合物がポリジメチルシロキサンではないと推察できるものではない。
よって,原告の上記主張は理由がない。
原告(特許出願人):特種東海製紙株式会社
被告(特許庁):特許庁長官
執筆:高石秀樹(弁護士・弁理士)(特許ニュース令和3年4月23日の原稿を追記・修正したものです。)
監修:吉田和彦(弁護士・弁理士)
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