1.特許請求の範囲
「・・・で表されるオピオイドκ受容体作動性化合物を有効成分とする止痒剤。」
2.本件発明1と甲1発明との相違点(2個)
(相違点1)本件発明1では,化合物Aがオピオイドκ受容体作動性であるとされているのに対し,甲1発明では,そのような特定がされていない点。
(相違点2)本件発明1は,化合物Aを有効成分とする止痒剤であるのに対し,甲1発明は,化合物Aをそのような用途とするものではない点。
もっとも、相違点1については、審決も「甲1には,甲1発明の化合物Aがオピオイドκ受容体作動性であることが記載されているといえるから,相違点1は実質的な相違点ではない。」と判断しており、本判決では判断対象とされていない。特許庁の審決では、形式的な相違点を一応認定した上で、引用文献を読み込んで開示があると判断し、実質的な相違点ではないと判断することが多い。これは、裁判所においては、そもそも一致点と判断されることになると思われるが、結論に影響があるわけではない。
要するに、本判決は、公知の化合物を「止痒剤」という用途に用いることの動機付けの有無(容易想到性)が争点となった事案である。
3.本判決の進歩性判断に関する判旨抜粋(下線部を付加した。)
…本件優先日当時,Cowanらが,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みには関連性があることを実験等により実証していたとは認められないし,また,その作用機序等も説明していない。さらに,甲4には,「この行動,及びその行動の発生におけるボンベシンの考え得る役割については,更に研究する必要がある。」と記載されており,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みには関連性があると断定まではされていない。…甲25では,そもそもラットのグルーミングの実施形態,目的,又は,これを支配する状況等は,ほとんど何も知られていないとされており,…甲27でも,ボンベシンにより誘発される行動が,痛み等の侵害刺激に基づく可能性があるとの指摘がされており,…甲9においても,信頼性のある痒みの動物モデルは存在しない,マウスは起痒剤Compound48/80を皮下注射されても引っ掻き行動をせず,マウスがグルーミング中に耳及び体の引っ掻き行動するのが痒みに関連した行動とは考えられないなどとされており,Cowanら以外の研究者は,ボンベシンやそれ以外の原因により誘発されるグルーミング・引っ掻き行動が,痒み以外の要因によって生じているとの見解を有していたと認められる。…甲9は,Compound48/80やサブスタンスPを起痒剤として取り扱っており,本件明細書の実施例12でも起痒剤としてボンベシンではなく,Compound48/80が使用されている一方,ボンベシンは,本件優先日当時,起痒剤として当業者に広く認識されて用いられていたものであるとは,本件における証拠上認められない。以上からすると,本件優先日当時,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みの間に関連性があるということは,技術的な裏付けがない,Cowanらの提唱する一つの仮説にすぎないものであったと認められる…。…
本件優先日当時,オピオイドκ受容体作動性化合物が,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を抑制する可能性が,Cowanらによって提唱されていたものの,甲1の化合物Aがボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱するかどうかについては,実験によって明らかにしてみないと分からない状態であったと認められる上,…ボンベシンが誘発するグルーミング・引っ掻き行動の作用機序が不明であったことも踏まえると,なお研究の余地が大いに残されている状況であったと認められる。
…本件優先日当時,Cowanらは,①ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動が,痒みによって引き起こされているものであるという前提に立った上で,②オピオイドκ受容体作動性化合物のうちのいくつかのものが,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱することを明らかにしていた。しかし,上記①の点については…技術的裏付けの乏しい一つの仮説にすぎないものであった。上記②の点についても…本件優先日当時において研究の余地が大いに残されていた。そうすると,本件優先日当時,当業者が,Cowanらの研究に基づいて,オピオイドκ受容体作動性化合物が止痒剤として使用できる可能性があることから,甲1発明の化合物Aを止痒剤として用いることを動機付られると認めることはできない…。
4.若干の考察
本判決は、公知文献中に、公知物質を本件特許発明の用途に用いることを示唆する文章があったものの、優先日当時の他の文献から優先日当時に両説が存在していたことを認定し、公知文献中の文章が仮説に過ぎなかったと判断され、甲1発明の化合物Aを止痒剤という用途に用いることの動機付けが否定された。
確かに、優先日当時に色々な仮説が存在していた場合に、そのうち一つを抽出して引用文献とすることで動機付けが認められ、進歩性が否定されるとすると、何れの仮説が正しいかを検討する研究を行うモチベーションが下がってしまうことから、本判決の考え方は、無効審判請求人には厳しいが、有り得る考え方ではある。
無効審判請求人としては、一つの公知文献に相違点を埋める方向での動機付けに繋がる文章が存在しただけで安心してはならず、優先日当時の技術常識、技術水準を主張・立証する必要があるだろう。
本判決と同様の考え方をした裁判例としては、特許出願当時は両説が存在しており、「実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であった」として、クレームアップされた作用効果の容易想到性を否定し、進歩性〇と判断した重要裁判例として、後記平成25年(行ケ)第10209号【血管内膜の肥厚抑制剤】事件<清水裁判長>がある。
その他、後記関連裁判例は何れも重要であり、実務において参考になる。
1.主引用例が技術的に誤っていると判断した重要裁判例
(知財高判平成30年(行ケ)第10055号【散乱光式煙感知器】事件<鶴岡裁判長>)
(*主引用例が技術的に誤っている。⇒引用例の認定誤り。⇒進歩性〇)
「甲1文献の記載…①…、②…、③ レイリーの理論から,浮遊粒子の所与の質量濃度において,長波長光は,小さな粒子の場合に小さな振幅信号…を生成し,大きな粒子の場合に大きな振幅信号…を生成することになる。④ 短波長光は,大小の粒子いずれの場合にも,相対的に等しい振幅信号…を生成することになる。…,⑤ 「したがって,信号の比を比較することにより…,粒子が大きいか小さいかを判定することができる。」…これによれば,「信号の比」(記載⑤)における「信号」は,「長波長光」が生成する「振幅信号」(記載③)と,「短波長光」が生成する「振幅信号」(記載④)であり,「信号の比」とは,長波長光が生成する振幅信号と短波長光が生成する振幅信号の比であると理解することも文脈上は可能であるようにみえる。…そこで,このような理解を前提に,本件記載を技術的に理解することができるかについて検討する。…
結局,記載④を記載③及び記載⑤と整合的に説明することはできないものといわざるを得ない。そうすると,当業者は,甲1文献から,引用発明の争いのない構成において「長波長光からの振幅信号と短波長光からの振幅信号との比を比較することにより煙粒子の大きさを判定」するという技術的思想を認識することはできないものというべきである。」
2.引用例に記載されたデータの理解につき執筆者自身が述べた考察を重視した重要裁判例
(知財高判平成31年(行ケ)第10019号【L-グルタミン酸生産菌】事件<森裁判長>)(*引用例に記載されたデータの理解につき執筆者自身が述べた考察を重視した。⇒これと反する理解を主張した無効審判請求人の主張が排斥された。⇒進歩性〇)
「…甲8のTable 1…の結果を受けて,クラマー博士をはじめとする甲8の執筆者らは,グリシンベタインなど多くが排出されている溶質については浸透圧調節チャネルから排出されたとしつつ,グルタミン酸の排出については,浸透圧調節チャネルではなく,担体による排出であるとの結論を導いている。Table 1.でグルタミン酸に次いで排出が制限されていることが観察されたリジンについては,…本件優先日当時までに,その輸送を担う担体がクラマー博士らによって発見されており,グルタミン酸の排出についてもリジンなどと同様に担体によるものであるとの説がクラマー博士らによって提唱されていた。そのクラマー博士が,自ら実験をした上でTable 1.の結果を分析し,甲8の共同執筆者の一人として上記のような結論を導いていることからすると,甲8に接した当業者が,それと異なる結論を敢えて着想するとは通常は考え難いところである。」
3.本判決(「止痒剤」事件)と同様に、特許出願当時は両説が存在しており、「実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であった」として、クレームアップされた作用効果の容易想到性を否定し、進歩性〇と判断した重要裁判例
(平成25年(行ケ)第10209号【血管内膜の肥厚抑制剤】事件<清水裁判長>)(*血管内膜の肥厚抑制剤というクレームでない⇒人体に摂取する意味で用途発明であるが、技術的範囲は医薬品に限られないか?)
「【請求項1】…Ile Pro Pro 及び/又は Val Pro Pro を有効成分として含有し,血管内皮機能改善及び血管内膜の肥厚抑制の少なくとも一方の作用を有する剤
本願優先日当時においては,ACE阻害剤が血管内皮の収縮・拡張機能改善作用,血管内膜の肥厚抑制作用を示した実例はあるものの,ACE阻害剤であれば原則として上記作用のうち少なくともいずれか一方を有するとまではいえず,個々のACE阻害剤が実際にこれらの作用を有するか否かは,各別の実験によって確認しなければ分からないというのが,当業者の一般的な認識であったものと認められる。」
4.引用発明中の「一行記載」のみでは、引用発明の開示があると認められなかった重要裁判例
(1)平成17年(行ケ)第10445号【非水電解液二次電池】事件(*引用例の認定につき一行記載であるから記載無しとした事例。記載要件の判断も要確認。数値限定の判断も要確認。)
「原告が引用する上記記載は,発明の詳細な説明中の『問題点を解決するための手段及び作用』の項の末尾部分の記載であり,『更に要すれば』,『電池の構造としては,特に限定されるものでないが』,『一例として挙げられる』との記載から明らかなように,特許請求の範囲に記載された二次電池の発明を実施する場合に適用可能な電池の構造ないし形態を単に例示したにとどまるものであって,具体的な実施態様を開示したものとは認められない。」
(2)平成24年(行ケ)第10233号【抗菌性ガラス】事件(*一行記載について、引用発明の適格性が否定された事例)
「…被告は,引用例1の発明の詳細な説明中に「本発明で使用する溶解性ガラスは,硼珪酸塩系及び燐酸塩系の内,少なくとも1種類である」(段落【0006】)との記載があることを根拠として,引用例1に硼珪酸塩系ガラスが開示されていると主張する。しかし,…引用例1の請求項1では,溶解性ガラスを燐酸塩系ガラスに限定している以上,上記記載から,硼珪酸塩系ガラスが示されていると認定することはできない…。引用例1には,引用例1に先立つ従来技術として,乙1文献が挙げられており…,同文献には,水溶性ガラスとして,硼珪酸塩系ガラスと燐酸塩系ガラスの両者が記載されているが,そのような文脈を根拠として,溶解性ガラスを燐酸塩系ガラスに限定した引用例1発明の「溶解性ガラス」について,硼珪酸塩系ガラスと燐酸塩系ガラスの両者を共に含むと理解することは無理があり,採用できない。」
(3)平成21年(行ケ)第10180号【4-アミノ-1-ヒドロキシブチリデン-1,1-ビスホスホン酸又はその塩の製造方法及び前記酸の特定の塩】事件(*”引用発明の適格性”として,実施可能であることが必要。(H16(行ケ)259同旨)(H24(行ケ)10134同旨)⇒学会発表要旨集の一行記載について、引用発明の適格性が否定された事例。*実験証明書は優先日当時の技術常識でない知見に拠っている。)
「『刊行物』に『物の発明』が記載されているというためには,同刊行物に当該物の発明の構成が開示されていることを要することはいうまでもないが,発明が技術的思想の創作であること(同法2条1項参照)にかんがみれば,当該刊行物に接した当業者が,思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく,特許出願時の技術常識に基づいてその技術的思想を実施し得る程度に,当該発明の技術的思想が開示されていることを要するものというべきである。特に,当該物が,新規の化学物質である場合には,新規の化学物質は製造方法その他の入手方法を見出すことが困難であることが少なくないから,刊行物にその技術的思想が開示されているというためには,一般に,当該物質の構成が開示されていることに止まらず,その製造方法を理解し得る程度の記載があることを要するというべきである。そして,刊行物に製造方法を理解し得る程度の記載がない場合には,当該刊行物に接した当業者が,思考や試行錯誤等の創作能力を発揮するまでもなく,特許出願時の技術常識に基づいてその製造方法その他の入手方法を見いだすことができることが必要である…。」
5.引用発明の認定が問題となった、その他の裁判例
5-1.特許権者有利な裁判例(進歩性〇)
(1)平成30年(行ケ)第10151号「ギャッチベッド用マットレス」事件<鶴岡裁判長>
(2)平成30年(行ケ)第10055号「散乱光式煙感知器」事件<鶴岡裁判長>
(3)平成29年(行ケ)第10117号「マイコプラズマ・ニューモニエ検出用イムノクロマトグラフィー試験デバイスおよびキット」事件<鶴岡裁判長>
(4)知財高裁(大合議)平成28年(行ケ)第10182号「ピリミジン誘導体」事件<清水裁判長>
*選択発明の新規性・進歩性判断に通ずる。
(5)平成25年(行ケ)第10248号「排気ガス浄化システム」事件
<=H24(行ケ)10005、H26(行ケ)10251>
(6)平成29年(行ケ)第10062号「半導体デバイス」事件<高部裁判長>
(判旨抜粋)「…引用例には,『…』との発明(…)が記載されているものと認められる。よってSiCMOSFETの一の電極とSiCショットキーダイオードの一方の電極がいずれも不明であるとした本件決定の認定には,誤りがあるというべきである。…カソード電極からアノード電極に変更する動機付けがあるとはいえないから,相違点1’に係る本件発明1の構成を当事者が容易に想到できたものであるとは認められない。」
5-2.特許権者不利な裁判例(進歩性×)
(1)平成25年(行ケ)第10012号「内燃機関」事件<富田裁判長>
(2)平成29年(行ケ)第10160号「光安定性の向上した組成物」事件<鶴岡裁判長>
(判旨抜粋)「引用発明は,本件発明と引用発明との一致点及び相違点を抽出するための対比が可能な程度に特定されていれば足り,本件発明との対比に明らかに関係がない事項についてまで,引用例に記載されているとおりにそのまま認定しなければならないものではないと解される。また,審決が問題にしているベシル酸アムロジピンの含有量の限定や添加剤の限定は,課題解決のために必要な構成であるとはいえない。」
(3)平成23年(行ケ)第10201号「光学増幅装置」事件
(判旨抜粋)「特許法29条1項3号…所定の『刊行物に記載された発明』というためには,刊行物記載の技術事項が,特許出願当時の技術水準を前提にして,当業者に認識,理解され,特許発明と対比するに十分な程度に開示されていることを要するが,『刊行物に記載された発明』が,特許法所定の特許適格性を有することまでを要するものではない。」
(4)平成22年(行ケ)第10313号「パン・菓子用米粉組成物…」
(5)平成24年(行ケ)第10124号「癌および他の疾患を治療および管理するための免疫調節性化合物を用いた…組成物」事件
(6)平成28年(行ケ)第10061号「入退室管理システム」事件<鶴岡裁判長>
(判旨抜粋)「…本件訂正発明1との対比は,飽くまで複数の固定無線機の設置位置が「施設の各部屋」を含むがこれに限定されないものとして認定した引用発明Aをもってなされるのが相当である。…上記のように相違点1´を認定した場合,仮に同相違点に係る構成(移動体の位置検出を行うために複数の起動信号発信器を出入口の一方側と他方側に設置する構成)が本件特許の出願時において周知であったとすれば,引用発明Aとかかる周知技術とは,移動体の位置検出を目的とする点において,関連した技術分野に属し,かつ,共通の課題を有するものと認められ,また,引用発明Aは,複数の固定無線機の設置位置を特定(限定)しないものである以上,前記の周知技術を適用する上で阻害要因となるべき事情も特に存しないことになる…。」
2 取消事由1(本件発明1の進歩性欠如の判断の違法)について
(1) 甲1発明の認定及び甲1発明と本件発明1の対比
・・・
(2) 相違点2についての判断(甲1の「鎮痛剤」と「鎮静剤」の用途からの動機付けについて)・・・
・・・
ア 本件優先日当時までの各文献の記載
・・・
イ 甲1の記載事項について
(ア) 前記(1)の甲1の記載によると,甲1には,甲1記載の化合物Aについて,「鎮痛剤」としての用途及び「鎮静剤」としての用途が記載されている。もっとも,「鎮静剤」としての用途については,「κ-アゴニストの性質から・・・鎮静剤としても利用が可能」とわずかに2か所(74頁148欄26行~27行,131頁262欄40行~42行)で記載されているのみであり,「鎮静剤」としての用途に関する実施例はない。
(イ) なお,甲1の[実施例142]の「強い沈静作用」は,「強い鎮痛作用」の誤記であると認められる。その理由は,次のとおりである。
a 上記[実施例142]は,その標題を「酢酸ライジング法による鎮痛活性」としている上,[実施例142]の実験結果をまとめた表にも「(表2)酢酸ライジング法による鎮痛活性」と記載されている。また,証拠(乙1[鈴木勉「鎮痛テスト-2:酢酸ライジング法」生体の科学45巻5号478頁~479頁,平成6年])によると,酢酸ライジング法は,仮性疼痛反応を引き起こす手法であるところ,上記表にあるED50は,50%有効用量として,鎮痛効力の検定に当たって使用される指標であると認められる。以上からすると,甲1の[実施例142]の「強い沈静作用」は「強い鎮痛作用」の誤記であり,当業者は,そのように認識すると認められる。
b 原告が論拠とする甲61(高橋正克「鎮痛テスト-1:tail-pinch 法・tail-flick法・hot-plate法」生体の科学45巻5号474頁~477頁,平成6年)は,その「鎮痛テスト-1」という標題からして,仮性疼痛反応をマウスに引き起こす手法が,基本的には「鎮痛テスト」のために用いられるものであることを示しているものであると認められ,上記認定を覆すものとはいえない。その他,原告が論拠とする各証拠も,鎮静や瘙痒の一般的な意味について記載しているもの(甲40,41),オピオイドκ作動性化合物について鎮静剤としても利用可能とだけ記載するもの(甲59),κ受容体が鎮静に関係することを示すもの(甲60[鈴木勉「薬物依存-精神依存はこうしてつくられる」ファルマシア31巻4号378 頁~382頁,平成7年])であり,いずれも上記認定を左右するものではない。
ウ 検討
以下のとおり,鎮痛・鎮痛と止痒との間に原告が主張するような強い技術的関連 や課題・作用効果の共通性といったものがあるとは認められないから,当業者が,本件優先日当時に甲1に甲22,23などから認定できる知見を適用して,甲1の化合物Aを止痒に用いることを容易に想到することができるとはいえないというべきである。
(ア)a まず,鎮静と止痒の関係について検討するに,一般的に鎮静剤であると止痒作用を有することが多いなどの知見について記載した文献が,本件優先日当時に存在したとは,本件における証拠上認められない。 また,前記アの乙2に記載されている事項及び証拠(乙12)並びに弁論の全趣旨からすると,鎮静剤とは,中枢神経系に一般的な抑制作用を示し,不安,興奮を静めるなどの作用を持つ薬物であると認められるが,同じ鎮静剤といっても,バルビツール酸系,ベンゾジアゼピン系,非ベンゾジアゼピン系など,化学構造,作用部位,作用機序がそれぞれ異なっていて,そのことは,本件優先日当時の当業者に広く知られていたものと認められる。そうすると,仮にある鎮静剤について,止痒作用を有することが明らかになったとしても,それと異なる系統の鎮静剤に止痒作用があると当業者が考えるとは認められないから,そこからして,鎮静と止痒の間に,原告の主張するような一般的な技術的関連性があるとか,課題・作用効果の共通性があると,本件優先日当時の当業者が認識していたとは認められない。
b 甲22には,痒みに鎮静剤を用いる旨の記載があるものの,甲22は,甲1の化合物Aとは薬理作用が全く異なる抗ヒスタミン剤の瘙痒性皮膚疾患に対する臨床効果について論じる論文であって,そこでいう鎮静剤がどのようなものを指しているのかについて甲22中には具体的な言及はないから,甲22の前記ア(イ)の記載から,当業者が,鎮静と止痒の間に技術的関連性があると認識するとは認められない。
甲23についても,甲23にいう「鎮静作用」は,その記載からして抗ヒスタミン剤のそれをいうものと解されるが,上記のように同じ鎮静剤とはいっても,その作用部位や作用機序が異なることからすると,仮に抗ヒスタミン剤としての中枢鎮静作用が止痒に有効であるとしても,化合物Aのようなオピオイドκ受容体作動性化合物としての鎮静作用が止痒に有効であるかどうかは,当業者には明らかではないというほかない。
甲59の「咳嗽じんま疹」に関する記載は,前記ア(ク)のとおり,「本発明の化合物は・・・咳嗽じんま疹,百日咳等の各種呼吸器疾患や・・・咳嗽の抑制,・・・として,医療品分野で有用である」というもので,その記載内容からすると,甲59では,甲59記載の化合物の鎮咳薬が使用できる呼吸器疾患の具体例として,「咳嗽じんま疹」が掲げられていると解されるのであり,当業者は,ここから甲59記載の化合物が,痒みの疾患にも効果があるとは理解しないものと認められる。
甲45の292頁にある「depressant」を原告が主張するとおりに「鎮静」と訳すとしても,甲45には,ラットのグルーミング行動が痒みに基づくものであることが記載されているとは認められないし,後述する(3)アの本件優先日当時までの各文献の記載によると,本件優先日時点でも,ラット等のグルーミング行動が痒みによって生じることが当業者の間で技術常識になっていたとは認められないから,甲45に接した当業者が,オピオイドκ作動性化合物としての性質に基づく鎮静作用と止痒作用との間に関連性があることを想起するとは認められないというべきである。
(イ)a 鎮痛と止痒との関係については,前記ア(ア)のとおり,昭和42年に発行された甲24には,「痒みが痛覚の亜型である。」と記載され,前記ア(カ)のとおり,平成2年に発行された甲41にも,「瘙痒 限局性ないし汎発性のかゆみ,・・・疼痛の変形したものといわれており,知覚神経から・・・中枢に運ばれて瘙痒として認識される。」と記載されているものの,①1995年(平成7年)に発行された二つの文献に,後記(3)ア(ケ)のとおり,「痛みと痒みは,おそらく独立した感覚様式であり,・・・」(甲7),前記ア(オ)のとおり,「そう痒症は皮膚疾患の主で不快な症状であり,・・・その発症機序は分からないままである。」(甲9)と,それと相反する内容の見解が記載されていること,②鎮痛作用を有すると, 止痒作用を有することが多いなどの知見が,本件優先日当時に存在していたことを認めるに足りる本件における証拠はないこと,③本件明細書には,前記1(1)イのとおり,β―エンドルフィンやエンケファリンのような内因性オピオイドペプチドやモルヒネのように,化合物Aと同じ,オピオイド受容体に作用し,鎮痛作用を有する化合物が痒みを惹起することが記載されており,「統一的見解として,オピオイド系作動薬は痒みを惹起する作用があり,」と記載されていることを考え併せると,本件優先日当時,少なくともオピオイド作動性化合物としての性質から鎮痛作用を持つ化合物について,その鎮痛作用と止痒作用との間に技術的関連性があるとか,課題・作用効果の共通性があると当業者が認識していたとは認められない(なお,この点について,化合物Aとボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動の関係からも動機付けがないことは,後記(3)のとおりである。)。
b 原告は,この点について,①当業者は,甲1と甲9を組み合わせて化合物Aの止痒剤への用途を確認しようとする動機付けを持つ,②本件発明1は痒みと痛みの両方が生じる虫刺症など疾患に利用可能とされているところ,同じ物質である化合物Aについて,甲1で鎮痛剤などとして利用可能とされているから,技術的関連性や課題・作用効果の共通性があると主張する。
しかし,上記①について,前記ア(オ)の記載から明らかなとおり,甲9は,「痛み」と「痒み」は,その機序が異なり,それぞれ違うものであるという前提に立って記載されているものであり,当業者が,甲9から「痛み」と「痒み」に関連性があることを想起するとはいえない。
上記②についても,上記(ア)や上記aで認定判断したように,本件優先日当時,当業者が,鎮静作用と止痒作用との間に,技術的関連性があるとか,課題・作用効果の共通性があると認識していたとは認められないし,オピオイド作動性化合物について,その鎮痛作用と止痒作用との間に,技術的関連性があるとか,課題・作用効果の共通性があると認識していたとは認められない。本件発明1は,痒みと痛みの両方が生じる疾患に利用可能とされていることは,この認定判断を左右するものではない。
(ウ) 以上からすると,甲1の「鎮痛剤」・「鎮静剤」の用途から,当業者が,甲22,23などから認定できる知見を適用して,甲1の化合物Aを止痒剤として用いることが動機付けられるとは認められない。
(3) 相違点2についての判断(ボンベシン誘発グルーミング・引っかき行動との 関係での動機付けについて)
ア 本件優先日当時までの各文献の記載
・・・
イ 検討
(ア) ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動に関する本件優先日当時の知見について 前記ア(ウ),(エ),(カ),(ケ)の各記載からすると,本件優先日当時までに,Cowanらは,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みの間には関連性があることを提唱していたものと認められる。
しかし,これらの証拠によっても,本件優先日当時,Cowanらが,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みには関連性があることを実験等により実証していたとは認められないし,また,その作用機序等も説明していない。さらに,甲4には,「この行動,及びその行動の発生におけるボンベシンの考え得る役割については,更に研究する必要がある。」と記載されており,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みには関連性があると断定まではされていない。
加えて,前記ア(ア)のとおり,昭和35年に発表された甲25では,そもそもラットのグルーミングの実施形態,目的,又は,これを支配する状況等は,ほとんど何も知られていないとされており,前記ア(キ)のとおり,平成4年に発表された甲27でも,ボンベシンにより誘発される行動が,痛み等の侵害刺激に基づく可能性があるとの指摘がされており,前記(2)ア(オ)のとおり,平成7年に発表された甲9においても,信頼性のある痒みの動物モデルは存在しない,マウスは起痒剤Compound48/80を皮下注射されても引っ掻き行動をせず,マウスがグルーミング中に耳及び体の引っ掻き行動するのが痒みに関連した行動とは考えられないなどとされており,Cowanら以外の研究者は,ボンベシンやそれ以外の原因により誘発されるグルーミング・引っ掻き行動が,痒み以外の要因によって生じているとの見解を有していたと認められる。
そして,前記(2)ア(オ)のとおり,甲9は,Compound48/80やサブスタンスPを起痒剤として取り扱っており,本件明細書の実施例12でも起痒剤としてボンベシンではなく,Compound48/80が使用されている一方,ボンベシンは,本件優先日当時,起痒剤として当業者に広く認識されて用いられていたものであるとは,本件における証拠上認められない。
以上からすると,本件優先日当時,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動と痒みの間に関連性があるということは,技術的な裏付けがない,Cowanらの提唱する一つの仮説にすぎないものであったと認められる。
(イ) オピオイドκ受容体作動性化合物とボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動との関係について 前記ア(イ)~(カ),(ケ),(コ)の記載を総合すると,本件優先日当時までに,ベンゾモルファン,エチルケタゾシン,チフルアドム,U-50488,エナドリンといったオピオイドκ受容体作動性化合物が,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱すること,他方で,同じオピオイドκ受容体作動性化合物であっても,SKF10047,ナロルフィン,ICI204448といったものは,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱しないこと,さらに,オピオイドμ受容体作動性化合物であるフェナゾシン,オピオイドκ受容体作動作用を有することについて報告がされていない化合物(乙6~11)であるメトジラジン,トリメプラジン,クロルプロマジン,ジアゼパムのようなものであっても,ボンベシン誘発グルーミング行動が減弱されることが,Cowanらによって明らかにされていたといえる。
また,前記ア(エ),(カ)の記載及び弁論の全趣旨を総合すると,上記のボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱するオピオイドκ受容体作動性化合物の基本構造は,それぞれ異なっており,エチルケタゾシンはベンゾモルファン骨格,チフルアドムはベンゾジアゼピン骨格,U-50488及びエナドリンはアリールアセトアミド構造をそれぞれ有しており,甲1発明の化合物Aとはそれぞれ化学構造(骨格)を異にするものであった。そして,前記ア(ク)のとおり,化学構造の僅かな違いは,薬理学的特性に重大な影響を及ぼし得るものである。
以上からすると,本件優先日当時,オピオイドκ受容体作動性化合物が,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を抑制する可能性が,Cowanらによって提唱されていたものの,甲1の化合物Aがボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱するかどうかについては,実験によって明らかにしてみないと分からない状態であったと認められる上,上記(ア)のとおり,ボンベシンが誘発するグルーミング・引っ掻き行動の作用機序が不明であったことも踏まえると,なお研究の余地が大いに残されている状況であったと認められる。
(ウ) 上記(ア),(イ)を踏まえて判断するに,前記ア(イ)~(カ),(ケ)のとおり,本件優先日当時,Cowanらは,①ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動が,痒みによって引き起こされているものであるという前提に立った上で,②オピオイドκ受容体作動性化合物のうちのいくつかのものが,ボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動を減弱することを明らかにしていた。
しかし,上記①の点については,上記(ア)のとおり,技術的裏付けの乏しい一つの仮説にすぎないものであった。
上記②の点についても,上記(イ)のとおり,本件優先日当時において研究の余地が大いに残されていた。
そうすると,本件優先日当時,当業者が,Cowanらの研究に基づいて,オピオイドκ受容体作動性化合物が止痒剤として使用できる可能性があることから,甲1発明の化合物Aを止痒剤として用いることを動機付られると認めることはできないというべきである。
(エ) 小括
以上からすると,当業者が,甲1発明に甲2~9,12などから認定できる一連のボンベシン誘発グルーミング・引っ掻き行動とオピオイドκ受容体作動性化合物に関する知見を適用し,本件発明1を想到することが容易であったということはできないというべきであり,取消事由1は理由がない。
ウ 原告の主張について
原告は,これまで認定判断してきたところに加え,①本件審決は,技術常識が存在しないことから直ちに動機付けを否定してしまっており,公知文献から認められる仮説や推論からの動機付けについて検討しておらず,裁判例に照らしても誤りである,②甲63によると,ダイノルフィンAと同じオピオイドκ作動作用を持つ化合物は,痒みや痛みを抑制することが容易に予測でき,甲1の化合物Aを使用して止痒剤としての効果を奏するかを確認してみようという動機付けも肯定できると主張する。
しかし,上記①について,仮説や推論であっても,それらが動機付けを基礎付けるものとなる場合があるといえるが,本件においては,Cowanらの研究に基づいて,甲1発明の化合物Aを止痒剤として用いることが動機付けられるとは認められないことは,前記イで認定判断したとおりであり,原告が指摘する各裁判例もこの判断を左右するものとはいえず,原告の上記①の主張は採用することができない。
上記②について,本件明細書には,前記1(1)イのとおり,甲63にダイノルフィンと共に挙げられているエンドルフィン,エンケファリン(前記ア(サ))が,痒みを惹起することが記載されている上,前記ア(サ)のとおり,甲63が,痒みと痛みの関係は明確ではなく,研究を更に行わなければならないと結論付けているところからすると,甲63の記載が,ダイノルフィン,エンドルフィン,エンケファリン等の内因性オピオイドが,止痒剤の用途を有することを示唆するものであるとは認められず,甲63の記載から,当業者が,甲1の化合物Aについて,止痒剤としての効果を奏するかを確認することを動機付けられるとは認められない。
そして,その他,原告が主張するところを考慮しても,前記イの認定判断は左右されないというべきである。
原告(無効審判請求人):沢井製薬株式会社
被告(特許権者):東レ株式会社
執筆:高石秀樹(弁護士・弁理士)(特許ニュース令和3年9月21日の原稿を追記・修正したものです。)
監修:吉田和彦(弁護士・弁理士)
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